商店街振興組合法の制定

昭和27年 全日本商店街連合会が誕生

昭和26年、日本の経済が戦後の混乱から脱し、産業界もほぼ正常な地位を築きつつあった頃、各地における商店街活動も次第に活性化し、各都道府県及び各市域における連合会組織が次々と結成され、にわかに全国組織結成の気運が醸成されていった。そして、東京都商店街連合会、愛知県商店街連盟等が中心となって全国に呼びかけを行った結果、昭和26年12月6日、名古屋市において「全国小売商業者蹶起大会」が、全国から代表者700名の参加を得て開催され、全国組織結成の気運は最高に盛り上がった。
 これが足掛かりとなって、翌27年4月9日、東京・神田一ツ橋の共立講堂に1,500余名が参集、盛大に結成大会が挙行され、ここに初めて全国の商店街を統一した全日本商店街連合会(略称:全商連)が誕生し、初代会長に東京都商店街連合会会長の保坂幸治氏が就任した。
 全商連結成は、当時商業会では画期的な出来事として衆目を集め、この新たなる息吹と躍動は我国における商店街史の幕開けとなった。
 全商連は、その後幾多の県連の設立に伴い、組織を拡大しつつ、商店街の環境整備、商店経営の合理化等、商店・商店街の振興に関する各種指導事業を幅広く展開して実をあげる一方、政策活動にも積極的に取り組み、百貨店法(昭和31年)、小売商業調整特別措置法(昭和34年)等の関連法律の制定に際して、関係団体と協調しながら、一大原動力となって、その促進を図り、全商連の地位を確固たるものに築きつつあった。


昭和34年 消費ブームと大型量販店が出現

昭和30年代中盤、特に34年から36年にかけては日本経済のいわゆる岩戸景気といわれた高度成長が、生産性の向上、設備投資の増大、消費の拡大等を招来し、35年に至っては政府の所得倍増計画等成長政策が拍車をかけ、空前の消費ブームを迎えるに至った。
 家庭電化製品が幅広く普及浸透し、自動車の需要が急増、マイカー時代の現出もこの頃であった。当時、地域中小小売商は、一応にこれら消費ブーム・好況に支えられて楽観ムードを漂わせ、売上げ急上昇を示していた。
 しかし、高度成長も昭和36年中盤に至り、過剰投資等によって不均衡を生じ始め、政府の金融引き締め等一連の景気調整策によって、急激な成長に終わりを告げることになったが、この間、中小小売商を取りまく環境も次第に大きく変ぼうして行った。
 この高度成長がもたらした経済構造の変化、空前の消費ブームは、流通機構を変革させ、セルフ方式の食料品スーパー等大型量販安売店が全国各地に出現し始めた。また、百貨店の新増設にも拍車がかけられ、大型スーパーも食料品だけでなく日用雑貨、衣料品等取り扱い商品を拡大して行ったため、地域中小商業の経営はしだいに揺さぶられ始めていった。このため、中小商業者の中に、行政に対する百貨店業界等指導監督強化の要請や、百貨店法強化改正の声がしだいに高まっていった。
 こうした背景が、自ずと商店街の一層の団結の必要性を覚醒させていったのである。


昭和34年 伊勢湾台風が法制化への発端

昭和34年9月、東海地方を襲った伊勢湾台風は三重、愛知、岐阜の東海三県に死者、行方不明者4,700名、家屋流失・全壊約4万戸、半壊約10万戸、一部損壊32万8千戸、金額にして5,230億円と、台風史上最大の惨事をもたらした。
 商店街の受けた打撃も大きく、全国より温かい支援を受けつつ、必至の復興活動が開始された。当時、愛知県商店街連盟の山田泰吉会長は、莫大な資金需要を憂い、街路灯など公共施設の復旧には、国の助成金が得られないものかと、再三にわたり政府関係当局に要望を行った。
 しかし、当初は「商店街が法的団体でないため政府助成の対象にはならない」と、ことごとく要望は退けられたのであるが、山田会長ら関係者の真摯な努力が実を結び、結局「補助を受けた商店街は早急に協同組合化を図る」という条件つきで、東海三県に合わせて5,000万円の国庫補助金と、地方自治体からそれぞれ半額の災害救助金が交付された。
 当時、商店街団体が法人になろうとすれば、中小企業等協同組合法に基づく事業協同組合を設立するほかなかった。しかし、山田会長は協同組合設立を是としながらも、災害復旧と補助金獲得の労苦に学んだことは、共同事業等を中心とした縦割り的組織の協同組合よりも、街ぐるみ一体となって、公共的施設整備も含めた環境整備事業を推進し得る確固たる組織づくりの必要性であり、そのためには、「商店街法」あるいは「商店街振興法」といった商店街独自の組織を定めた法律を制定し、商店街が社会的にも経済的にも十分機能を発揮しうるよう、また国・地方自治体等の助成・融資制度の対象となりうる法人組合の設立を促進することであった。


昭和36年 商店街振興法制定で全国遊説

法制定促進活動は、空前の消費ブームに湧きかえった昭和35年には、さほど盛り上がりを示さなかったが、翌36年に入り、にわかに台頭し始めた百貨店問題に相呼応して、急速にその輪を拡げていった。
 昭和36年3月22日、全商連は東京・日比谷公会堂において、百貨店拡張絶対反対全国小売商大会を関係4団体と共催し、意気高く全国小売商の団結を誇示した。
 同年4月12日、全商連定期総会が開催され、商店街法制定、百貨店・スーパーの進出阻止、街路灯電灯料助成の要望等々、当面する重要諸活動の積極的な促進を決議。さらに、全商連組織の強化と小売商の一層の団結の必要性を再認識した。
 ここに、全商連は新たなる結束を固め、重要諸政策と併せて、商店街法制定促進活動を槌音高く本格的にスタートさせた。
 全商連は、同定時総会において、第四代会長に愛知県商店街連盟会長山田泰吉氏を選任し、早速法案作成の内容と具体的運動方針の検討に入り、7月20日、全国代表者会議を開催、名称を商店街振興法とし、同法案要綱(全商連案)を発表するとともに、一大普及啓蒙活動の必要性を確認し、向こう2ヶ月間の第一次全国遊説計画を決定。翌21日より分班し、地方遊説を開始した。
 遊説はその後も継続され、法制度の必要性を広く浸透させるとともに、県商連の結成をも促進し、実効豊かなものであった。
 また、当時自ら先頭に立って、寝食を忘れ、身を粉にして東奔西走した山田会長の姿は、数多くの人々に共鳴を与え、関係者の間に語り継がれているところである。
 9月に入り、かなりの盛り上がりが見えてきたところで、全商連は政治折衝に入り、自由民主党他各政党及び政府関係方面に対して、商店街振興法制定の具現化を期し、積極的な要望陳情活動を開始した。
 しかし、政府、通産省(中小企業庁)においては、商店街振興策の検討は行われていたものの、単独法制定ではなく、中小企業団体組織法(昭和33年4月施行)の一部改正によりそれに替えようとする空気が強く、全商連の意図するところとは隔絶するものであった。


あくまで単独法制定を貫徹

全商連は、10月16日都道府県会館(東京)において、各政府・政党代表、多数の国会議員を迎えて、全国会長会議を開催。全国400余名の代表は、法制定早期実現を声高らかに訴えるとともに、翌春の「全国総決起大会」開催を決議し、さらに運動の拡大を確認した。
 11月10日、全商連のこれらの動きに呼応し、愛知、岐阜、静岡、三重の4県商連の主催により「商店街振興法制定促進東海四県総決起大会」が開催された。ブロック大会の第一陣として開催された同大会は、名古屋市・中小企業センター大講堂に4県下の商店街代表者約750名を動員、愛商連山田泰吉会長(全商連会長)は「まさに期は熟しており、この期をのがしたら我々の法案を通すときはない。来るべき国会において是非とも商店街振興法の単独法としての制定を勝ちとろう」と力説した。
 これが足掛かりとなり、運動は全国各地に大きく輪を拡げ、実現へ一歩一歩前進していったのである。
 12月8日、自由民主党より昭和37年度予算大綱が発表された。それによると「中小企業育成策」の中で、「小売商業・小規模事業者対策」として-小売商業・小規模事業者の経営の安定のため、組織の整備と指導機構の強化を図り、商店街を育成振興する-と商店街振興策樹立が初めて打ち出され、具体化策としては、党中小企業対策委員会において「今次国会へ商店街振興法を単独法として提出する」旨が明らかにされた。


「商店街振興法制定促進全国総決起大会」に1万人が集結

ここにようやく、法制定への明るい兆しを見ることができたが、山田会長は「政府、通産省(中小企業庁)においては、なお既存の団体法の一部改正で済むのではないかといった意見も介在しており、また予算化を伴うものであるので、これが実現には、幾多の難関が横たわっている。決して楽観は許されない。これからが本当の戦いで、さらに全組織をあげて邁進しよう」と決意を表明した。
 昭和37年1月13日、全商連は名古屋市において全国事務局長会議を開催、かねて決定を見ていた全国総決起大会(3月9日・文京公会堂)について諸準備打合せを行い、さらに2月5日には具体的運営等を検討するための常任理事会を招集し、直ちに実行委員会に切り換え、実行委員長に井田安造東京都商連会長を選任した。また、当日までに全国各地から予定を上回る参加申し込みがあったため、急遽会場を東京両国の日大講堂に変更し、1万人の大集会へと拡大されることになった。

 2月17日、ついに商店街振興法が、政府及び自民党商工部会との検討打合せの結果、単独法として国会に提出されることに決定した。

昭和37年3月9日、全国の小売商業者が待望した「商店街振興法制定促進全国総決起大会」が開催された。当日は、北は北海道(12名参加)から南は鹿児島に至る全国津々浦々より、実に12,360名におよぶ参加があり、会場の日大講堂は超満員に膨れ上がった。ハチマキ、タスキ姿の参加者で熱気にあふれる中、国会からは大野伴睦自民党副総裁、前尾自民党幹事長、河上社会党委員長、西尾民社党委員長をはじめ閣僚及び衆・参国会議員など240名の来賓の臨席のもと開会し、冒頭、山田泰吉会長は力強い口調で次のとおり挨拶を行い、満場の拍手を浴びた。

「私は本日ここに、日本の商業史上いまだかつてなく、誰も予測し得なかった盛大にして真剣、熱烈にして建設の意欲にみちた全国商店街の皆様の総決起大会に臨み、この胸は感激で一杯であります。
 ご承知のごとく、我々商業者は今日まで、団結なき民『個々バラバラな小売業者に何ができるか』と冷笑の眼をもって傍観されてきました。それが今、あらゆる業種を超えて団結の組織力を持ち、その整然たる組織活動によって、北は北海道から南は九州・鹿児島のはてに至るまで、全国2千万人の商業関係者の代表1万2千有余名が、この大講堂に集結したのであります。
 この事実を世人は何と見るでしょうか。諸君、われわれ商店街人は、ここに立派に団結したのであります。この偉大な事実の上に立って、われわれは今後とも一層組織を固め、全国2千万の商業従事者に温かい政治の手が差しのべられるまで、断固戦おうではありませんか。(中略)私は、今日この大会が、光輝ある歴史をつくる総決起大会となることを切に要望して、ご挨拶にかえる次第であります。」

山田泰吉会長

大会は、「商店街振興法制定促進の件」について提案説明、また各地区代表者より関連事項についての意見発表が行われたあと、宣言・決議を満場一致可決採択し、全国小売商の団結力を高らかに誇示するとともに、法制定にかける並々ならぬ熱意と心意気を十二分に披瀝、まことに意義深いものであった。


■商店街振興法制定促進全国総決起大会宣言文・昭和37年3月9日

大会終了後、山田会長、井田実行委員長を先頭に、東京駅八重洲口まで約4キロのデモ行進を行い散会、商店街史を飾る一大行事の幕を閉じた。
 全国大会の盛り上がりは、商店街振興法制定の動きにさらに拍車をかけた。大会を機として、法制局における法文化作業は急ピッチで進み、一方自民党においては、党中小企業対策委員会及び商工部会で、商店街振興法の成文化を急いでいたが3月27日その要綱を発表、さらに4月5日の総務会で「商店街における事業者等の組織に関する法律案」としてこれを発表し、自民党より議員提案として国会に提出されることが決定した。
 4月10日、念願であった「商店街における事業者等の組織に関する法律案」が国会に提出され、13日に同法案は衆議院商工委員会に付託された。
 4月27日、自民、社会、民社の3党共同修正の上、衆議院商工委員会で全会一致可決され、翌28日衆議院本会議を通過、参議院へ送付された。
 なお、この段階で、法律の名称が「商店街振興組合法」に改められた。
 参議院では、会期の最終日である5月7日、商工委員会及び本会議で衆議院よりの送付案どおり可決成立し、5月17日に法律第141号として公布された。
 思えば、全商連の「商店街振興法案要綱」発表より成立まで295日間と、この種の立法としては異例に速い運びであったが、その道程は決して平坦なものではなく、山あり谷ありの苦闘の連続であった。特に、国会の大詰めの段階では、二転三転と審議日程が変更され、その間の一喜一憂は筆舌に尽くせないものであった。5月7日の会期最終日に至っては、参議院選を控えて会期延長は絶対にしないという大前提の中、選挙法改正をめぐって与野党間の激しい攻防が続けられ、本会議開会の目処がたたず、継続審査あるいは審議未了などに追いこまれることも予想される情勢であった。
 なお、商店街振興組合法は8月10日、閣議決定を経て、8月15日、「商店街振興組合法施行令」及び「商店街振興組合等登記令」が交付、同日付けをもって施行された。

全国6ブロックで設立説明会を開く

 昭和37年8月15日、商店街振興組合法が施行され、9月7日に同法に基づく組合の設立等の指導方針及び認可基準についての通達が、中小企業庁長官並びに指導部長名をもって都道府県知事宛発せられた。
 全日本商店街連合会(全商連)は、これに即応して中小企業庁、日本商工会議所に指導協力を要請し、各ブロックにおける説明会の開催を決定。10月9日の東北ブロックを皮切りに全国6ブロックにおける説明会を実施した。


全国第1号の県振連(当時)は愛知

 昭和38年度の全商連定時総会(5月22日)は、全国から420名の参加の中で開かれ、「商店街振興組合の設立を急ごう!」とスローガンを掲げ、同時に、スーパー等への対応策の一環として、商店街の販売促進を図ることを目的に、全国統一スタンプ事業の実施などが決定した。このスタンプ事業は、全商連が未法人であったため、中小企業庁の指導により「社団法人 全商連事業団」として、昭和38年10月10日に発足したが、発足1カ月で加盟店は全国で10万店を突破する好評を博し、一大ブームを巻き起こした。
 昭和39年、県振連の全国第1号である愛知県商店街振興組合連合会(山田泰吉理事長)が、県下142組合をもって誕生した。しかしこのあと、昭和40年が不況に明け、不況に暮れたことと、全国の小売商を多年に亘ってリードしてきた山田会長が、自ら経営する中部観光(株)のレストランシアター「ミカド」の倒産によって、全商連及び(社)全商連事業団の両代表を辞任したことが重なってか、県振連の結成は遅々として進まなかった。


昭和41年 全国商店街振興組合連合協議会発足

 8月23日に全商連は後任会長に東京都商連の中野喜介会長を専任、10月15日の正副会長会議において、商店街振興組合法に基づく全国連合会の設立を目的に、可能な限り都道府県商店街振興組合連合会の設立を促進するため、「全国商店街振興組合連合協議会」の設立を決定し、昭和41年1月25日、全国29都道府県連合会の参加によりスタートさせた。これにより、3月24日に和歌山県が、7月24日には福井県が県振連を設立したこともあり、全商連は8月26日の理事会において、「全国商店街振興組合連合協議会」では生温いとし、同協議会を発展的に解消して「全国商店街振興組合連合会設立発起人会」を設置することを決定した。そして9月20日、第1回の発起人会を開催し、今後の方針、設立準備推進方法等について協議するとともに、発起人代表に平松兵治氏(愛知県振連理事長)を選任した。


道振連結成が全国連合会設立を加速

 昭和42年1月、全商連は全国の商店街振興組合(連合会)の組織状況を発表した。それによると、県振連3(愛知・和歌山・福井)、市区振連8、単位組合843で、県・市区連合会の設立はまだこれからというものの、単位組合の設立は一応順調に推移していた。
 昭和42年11月21日、北海道商店街振興組合連合会が、全国4番目の県振連として設立されたのを機に、久しく開かれていなかった設立発起人会が再発足し、設立発起人に道振連加藤良雄理事長、福井県振連村田理事長、愛知県振連平松兵治理事長、和歌山県振連千川信夫理事長の4氏が就任、代表に平松兵治氏を選任して、本格的な準備体制に入った。そして、創立総会の日程については、昭和43年2月頃に東京・大分の両振連が結成される予定であることから、同年4月を目途に諸準備を進める旨を確認した。
 その後、3月12日に東京都振連、3月18日に大分県振連が設立されたこともあり、これと前後して開催した2回の発起人会で創立準備はほぼ終了した。

昭和43年4月12日 創立総会開く

 昭和43年4月12日、全国商店街振興組合連合会創立総会が、東京・赤坂プリンスホテルにおいて、道振連をはじめとする6都道県振連代表者・幹部と近く県振連を設立する予定の商店街振興組合代表者など50名が参集して、盛会に開かれ、初代理事長に平松兵治氏(愛知県振連理事長)を選出した。
 このあと、5月3日に認可申請、6月28日認可、7月3日登記を完了した。しかし、会員数6県商店街の全国連合会の設立は異例のことであったが、平松兵治理事長以下幹部の熱意と、当時の乙竹中小企業庁長官の深い理解もあり、近々に抜本的組織の拡充を図ることを前提としての特例認可であった。

北海道商店街連合会の設立

 昭和34年9月の伊勢湾台風を契機として、全日本商店街連合会(全商連)は、共同事業を中心とした縦割的組織の協同組合よりも、街ぐるみ一体となって、公共的施設整備を含めた環境整備事業を推進し得る確固たる組織づくりの必要性から、商店街振興法(のちに商店街振興組合法)の制定促進運動を続け、全国各地の商店街に組織化(任意)促進を要請していた。
 当北海道に対しても、札幌商工会議所に対し全道組織の結成を強く呼びかけてくるとともに、商店街振興法の制定に係わる全国会議及び全国大会への参加が要請されていた。
 札幌商工会議所は、商店街振興組合法が成立した昭和37年5月、道内商工会議所による北海道商店街連合会の組織化会議を初めて開催し、同年6月には、各地の商店街代表者による設立準備会を結成するとともに、7月には発起人会を発足させた。
 因みに、当時道内における商店街は、昭和25年7月に市内23の商店街をもって札幌商店街振連合会が結成されていたほか、旭川、小樽、室蘭、函館等の任意連合会が主体であった。
 こうして、商店街振興組合法が施行される1カ月前の昭和37年7月13日、道内18地域60名の参加により北海道商店街連合会が設立され、初代会長に加藤良雄氏(札幌=金市館社長)が就任した。


全商連山田泰吉会長らが相次いで来道

 北海道商店街連合会が発足してまもなくの昭和37年8月15日、商店街振興組合法が施行され、いやがうえにも商店街振興組合の設立気運が高まってきた。これは、同年10月12日を皮切りとして、全商連山田泰吉会長や中小企業庁の真木事務官が再三にわたり来道し、札幌、旭川などで組合法の説明会を開催して、法人化への強い要請があったことと、組合法の制定に中心的な役割を果たした大野伴睦、神田博両代議士が来道したことも大きな要因であった。
 このこともあって、昭和38年8月には札幌狸小路商店街振興組合、同八番街商店街振興組合が相次いで誕生し、翌39年には旭川、小樽などで次々と組合が設立されていった。
 よって、この盛り上がりをさらに促進するため、それまで札幌商工会議所にあった事務局を独立し初代事務局長に山形宣夫氏が就任した。


昭和42年 市域連合会第1号札幌市振連(当時)が誕生

 このあと、道内における商店街振興組合づくりは、昭和38年5組合、39年8組合、40年4組合、41年5組合と順調に進む中で、昭和42年1月には市域連合会として第1号の札幌市商店街振興組合連合会が、市内11組合の大同団結により誕生し初代理事長に加藤良雄氏(札幌狸小路商店街振興組合理事長)が就任した。


法人化を条件に道補助金100万円交付される

 北海道商店街連合会は、道内任意商店街の組織化を積極的に促進する一方、商店街の近代化を図るため、北海道に対し、再三にわたり補助金の交付要望を続けていた。しかし、当初は任意連合会ということもあってことごとく断られていたが昭和38年以来の組織化促進策によって、しだいに法人組合への設立気運が高まってきた状況もあり、時の町村金吾北海道知事の英断によって、昭和42年度に初めて100万円の補助金が交付されることとなった。


全道商店街会長会議開く

 ところが、この補助金の交付に際して、「昭和42年度中に北海道商店街振興組合連合会を設立すること」との条件が付されたのである。
 このため、北海道商店街連合会としては、法人化を進めるに当たっては、道内各市の任意連合会が法人化されるのを待って行う予定であったが、この時点では、旭川市を除いては早急には無理と判断し、急きょ、既に誕生していた札幌市振連と単位の商店街振興組合とによって、法人化を進めることに方針を変更した。
 その一方では、道内任意商店街の法人化をより促進するため、昭和42年8月25日に「商店街振興組合及びその連合会の設立についてのご指導ご依頼について」と題する文書を、道内支庁長、市長及び商工会議所会頭にあて発信するとともに、9月11日には、北海道知事に対し、商店街振興組合及びその連合会の設立についての指導依頼を行った。
 これを受けて、当時の北海道・浅井商工部長は道内支庁長及び各市長に対し、即座に要請文を発信された。
 北海道商店街連合会は、これらの準備を行った上で、当時商店街を取りまく環境が、大型店の出店攻勢が強まってきた厳しい状況にあったことなども踏まえ、昭和42年9月25日、札幌・定山渓第一ホテルに道内商店街の代表者を集め、法人化への最終的な検討を行うため、「全道商店街会長会議」を開催した。


発起人代表に加藤良雄氏を選任

 当日は、札幌をはじめ江別、美唄、夕張、岩見沢、小樽、旭川、釧路、稚内、函館、北見など、16地域から60名余が参加し、道商工部商政課長補佐安立健治氏の出席により、4時間におよぶ真剣な討議が行われた。
 その結果、札幌市振連と既に設立している単位組合とによって、北海道商店街振興組合連合会(道振連)を設立し、それに間に合わない単位の任意商店街については、北海道商店街連合会を現状のまま存続させ、両者一体となった運営の中で任意商店街の法人化を促進しながら、道振連に一本化していくことを確認した。
 その上で、13名の発起人を選出、発起人代表に加藤良雄氏(札幌市振連理事長)を選任した。

道振連設立における経過報告発信文書(S42年10月)

北海道商店街振興組合連合会の誕生

発起人会は、翌月の10月6日及び18日と矢継ぎ早に開催され、設立趣意書、定款、事業計画、収支予算などを具体的に検討した結果、創立総会を昭和42年11月21日、午後1時より札幌市の北海道経済センターで開催することを正式に決定した。
 創立総会には、道振連の設立に同意した札幌市振連とその傘下11組合をはじめとして、旭川、小樽、北見、室蘭、帯広、苫小牧の7市から24組合の代表者及び幹部80名余と、札幌通商産業局(当時)、北海道、札幌市ほか多数の来賓の出席のもと盛大に挙行された。
 各提出議案は慎重に審議された結果、全て原案どおり承認されるとともに、初代理事長に加藤良雄氏(札幌市振連理事長)が就任した。

道振連創立総会次第(昭和42年11月21日)

道振連創立総会終了後に開催した理事会議事録

そして、昭和43年2月13日に知事認可(商政第146号指令)、3月5日に登記完了した。これにより、全国で4番目の県振連として、以後における全国商店街振興組合連合会の設立に大きく貢献するとともに、本道商店街の活性化支援体制の確立に大きく前進したのである。

北海道商店街振興組合連合会(原文)設立の趣意

全国の商店街の旁々が一致団結して克ち得た商店の近代化と新しい街づくりのための商店街振興組合法が制定せられてここに五年余を経過した。
 この商店街振興組合に対する行政施策上の優遇措置は中小企業近代化資金の助成、諸共同事業資金の助成等、従来の任意団体である商店街からみますと格段の恩恵と利点があるのはご承知の通りであります。
 御高承の如く、近時吾国の経済は産業活動の好転に伴い、景気も上昇過程にあるとはいえ、流通構造の変革等経済環境は極度に厳しさを増し、中でも吾国の産業構造上における中小企業の存立基盤は大幅な修正を迫られている状況にあります。
 しかも吾国の国際的環境をみますと、かねてより懸案となっている諸外国との資本取引の自由化の課題と本格的に取組まなければならず、中小企業にとっては云うまでもなく、大企業にとっても重大な問題であり、そのためすでに大企業においては強大な外国資本の国内進出に備え企業の合同、その他産業再編成への動きがみられ、そのしわ寄せが中小企業にとって重大問題化せんとしているのみならず、他面においては物価対策の関係から厳しい攻勢の対象とせられており、今や吾国の中小企業は国の内外から重大な問題にさし迫られておりますが、中でも中小商業は抵抗力の弱い部門でありますので、その影響も最も懸念せられ、これが経営の近代化、合理化を急速且つ強力に進めることが緊急の要務となっております。
 近年吾国は、経済力強化とその基盤確立の必要性から特に構造基盤上問題のある中小企業の振興発展のため中小企業基本法を定め徐々に具体的施策の推進を図っておりますが、しかし現状これら一環としての商店街振興に関する諸施策は概して具体性を欠き表面上の施策のみ推移しており、決して吾々商店街人の満足を得る状況には至っておりません。
 特に最近の商業界における動静は、時代的要請もさることながら、大資本企業、農協、生協等系列化による大型商店、スーパーの進出で在来小売商の商圏は日を追って浸食され、その独自性は著しく減損されて来ており、これら放任政策による業界の混乱は今大きな社会問題として提起されるに至っている。
 加えて大企業偏重政策に伴う中小企業者にしわよせられた重税、中小商業近代化、合理化等共同施設事業に対する金融の悪条件、不合理等、解決を要する問題が山積しております。
 かかる諸問題の解決こそ中小商業者の育成と振興、更には経済の発展に通ずるものであり、吾々はより一層団結を強固にして政府に対し、画期的な商業振興対策の拡充、強化とその推進を要望し、完徹しなければなりません。
 現下、北海道における商店街の法人組織化はいま尚進行の過程にありますが、商店街振興組合法に基づく連合会の結成は法施行以来吾々商店街人が久しく念願していたものであり、これが組織化のあかつきは、具体的事業の推進機能において格段の前進が期待出来るものと信じております。
 加えて組織力を有効に発揮させるための商店街が一丸となって、その組織化を押し進め、有効適切な事業活動を強力に推進し、小売商相互の繁栄を図るため、ここに北海道商店街振興組合連合会を設立せんとするものであります。
 吾々発起人は商店街の振興が地域の発展と吾国経済の向上繁栄に大きな役割をもつことを自覚するとともに、変革期にあたる吾国経済の基盤確立に果たす使命の重大なることを再認識し、北海道商店街振興組合連合会設立の意義を広く関係各位にうったえ、絶大なるご支援と積極的なご賛同を仰ぎたく、目的、組織事業概要を明記してご加入をご懇請申し上げる次第であります。